去る、二月二四日から二七日の四日間、沖縄県名護市へ行ってきた。名護市には、日米両政府が普天間飛行場(宜野湾市)の返還と引き換えに、新たな滑走路を建設しようとしている「辺野古」という集落がある。二〇一四年の名護市長選・沖縄県知事選では、基地反対派の候補が圧勝しているが、安倍政権は「粛々と工事を進める」(菅義偉官房長官)構えを崩していない。今回私は、全労協系労働組合の四名の仲間と、辺野古新基地建設阻止の闘いへ連帯してきた。
初日は朝八時に羽田空港を出発。昼過ぎには、レンタカーで現地へ到着した。軽く浜辺を探索すると、一面に肌理の細かい砂子が広がっている。辺野古沿岸とその先の大浦湾は、ジュゴンや海亀、珊瑚が生息する、県下でも有数の「美ら海」(ちゅらうみ)だ。この美しい海を軍港にはさせないと、移設計画が持ち上がった当初から、地元住民を中心に反対闘争が組まれ、沖縄防衛局・米海軍の動向を見張るべく、三つのテント村が設けられた。住民は本気だ。一番長いテントは、二〇〇四年から一二年近く、運営されている。私たちも、工事機材が搬入されるキャンプシュワブ脇のゲートへ移動し、座り込んだ。
二日目は朝五時起床。六時半から約一五〇人でゲート前へ座り込む。七時頃、機動隊が現れ、強制排除された。強制排除とは、座り込み参加者一人につき、二~四人の機動隊員が襲いかかり、四肢を持ち上げ、現場から強引に立ち退かせることだ。そして排除後、ミキサー車や重機など、工事に必要な関係車両を入れる。この時は、計八台が基地内へ入っていった。ちなみに、沖縄の運動は、徹底した「非暴力」を掲げている。排除されても、機動隊員を殴ったり、蹴り飛ばしたりはしない。けれど全身を使って、「不服従」の態度は示す。九時からは船に乗り、滑走路や岸壁を建設する埋め立て予定地で、抗議を行った。一帯は「臨時制限区域」に指定されており、沖縄防衛局の下請けである民間警備会社・マリンセキュリティの監視船が、目を光らせている。同社は私たちの船を追尾し、「法令違反です。ただちに立ち去ってください」と、大音量で警告を発し続けた。カーチェイスならぬシップチェイスだ。
三日目も五時起床。六時半から約八〇人で座り込んだ。糸数慶子参議院議員(沖縄社会大衆党)も、最先頭で着座している。この日、キャンプシュワブ前のテント村は、開設六〇〇日の記念日だった。糸数氏は、沖縄県民の不屈の抵抗に、敬意と連帯のアピールを送っていた。また、沖縄の反基地闘争の顔である、山城博治沖縄平和運動センター議長は、先般、ジャーナリストのジョン・ミッチェル氏と面会した際のエピソードを紹介。二月八日に、米紙「ワシントン・ポスト」で、辺野古の問題が特集されたことの政治的意義を強調した。結局この日、工事車両の立ち入りはなし。抗議を展開しつつ、「座り込めここへ」「沖縄今こそ立ち上がろう」「沖縄を返せ」「翼をください」「明日があるさ」「勝利の歌」といった唱歌を、皆で歌った。本土の社会運動は、アジテーションや悲壮な決意表明が目立つが、沖縄の運動には歌や踊りがあり、楽しい。
四日目、最終日も五時起床。六時四〇分頃、機動隊が座り込み参加者三〇人ほどを追い出し、工事車両一九台が基地へ入った。また九時半には、約四〇人を排除し、ダンプカー六台が侵入した。「非暴力」とは言え、無理やり締め出してくる以上、現場は激しい。屈強な機動隊員と半騒乱状態になる。私も首と腕を軽く捻挫してしまった。一〇時過ぎに撤収後は、宜野湾市へ移動。「沖縄戦の図」(丸木位里・俊)が有名な佐喜眞美術館と、「世界一危険な基地」(ラムズフェルド国防長官)として名高い普天間飛行場を見学した。普天間では、オスプレイが爆音を立て、基地を離陸していた。うるさい。最後は那覇市に戻り、空港近くの「不屈館」へ立ち寄る。ここは、敗戦後の米軍統治下、民衆の権利擁護と、沖縄の「祖国」復帰に尽力した、政治家・瀬長亀次郎(沖縄人民党・日本共産党)の資料館である。小規模な施設ながら、見応えのある充実した展示だった。
沖縄は、〇・六%の国土面積に、七四%の米軍施設が密集する「基地の島」だ。憲法九条と日米安保条約の両輪で構成された、戦後日本の「平和主義」の矛盾――あるいは欺瞞――が、集約的に表れている場所でもある。今回同道した、坂本啓太全統一労働組合書記次長は、「基地も、反基地の闘いも、沖縄にばかり押し付けちゃいけない。だから私たちは、東京から来ました」と集会で発言していたが、その通りだろう。仲間と連れ立って、また辺野古を訪れたい。(2016・3・2)
2016年3月4日金曜日
2016年1月17日日曜日
執行猶予が明ける
2年前、介護福祉士試験へ合格したものの、法大学生運動裁判の執行猶予期間中のため登録できず(※)、人知れず<闇>福祉士として活動してきましたが、先日、1月15日付けで、3年間の執行猶予が明けました。
早速、登録申請しています。
※社会福祉士及び介護福祉士法
第1章3条(欠格事由)
次の各号のいずれかに該当する者は、社会福祉士又は介護福祉士となることができない。
禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなつた日から起算して2年を経過しない者。
早速、登録申請しています。
※社会福祉士及び介護福祉士法
第1章3条(欠格事由)
次の各号のいずれかに該当する者は、社会福祉士又は介護福祉士となることができない。
禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなつた日から起算して2年を経過しない者。
2015年10月29日木曜日
19歳のハンスト
先日、後輩の大学生が、参議院会館前で1週間、ハンガーストライキを行った。安倍政権による集団的自衛権法制化に抗議してのことだ。その様子は「東京新聞」
や「日刊ゲンダイ」で報じられた他、インターネット上でも一種の「炎上」状態となっていたから、あるいは、ご存知の方もいるかもしれない。この間多くの識者が指摘しているように、先般国会へ上程された安保関連法案には、大きく2つの問題点があると言われている。国内的には憲法違反の疑いが濃厚であること、
国外的にはアメリカの侵略戦争に――「自衛」の名をもって――日本が積極加担する危険が甚大であることだ。
8月27日のハンスト開始以降、学生らは参議院会館前で野営し、朝昼晩の1日3回、集会を開催した。この集会には、元内閣総理大臣の菅直人氏、社民党の吉田忠智党首を始め、多くの国会議員が足を運び、激励と連帯のアピールを行った。また、前述の日本のメディアの他、海外のメディアも頻繁に取材へ訪れた。
中国の「フェニックステレビ」、イギリスの「デイリーメール」、シンガポールの「ストレートタイムス」、アラブ首長国連邦の「ザ・ナショナル」などがそれである。仄聞した話では、イランのラジオでも報じられたそうだ。海外メディアの報道について、ハンスト学生の一人は、「日本の民衆が安倍政権に反対しているという事実が海外に伝わっていくのは重要なこと。戦争に反対するためには、緊張関係を抱える東アジアの人々と協力しつつ反戦運動をつくりだす必要がある」と、民衆の国際連帯の観点から、その意義を強調した。
議員やメディアだけではない。市井の人々の注目も多大だった。参院会館前には連日多くの労働者や市民が、慰問へ訪れた。朝、通勤途中と覚しきOLが、一言も言わず、新聞各紙とミネラルウォーターの入ったコンビニ袋を投げ去って行ったのは、麗しい美談である。彼女はツンデレだったに違いない。あまたの差し入れの結果、ハンスト実行者が唯一摂れる食糧の「塩」は、岡山産・沖縄産・フランス産・イタリア産など、国内外の名産品が揃った。
2015年10月28日水曜日
通信制大学の学び
今年の3月、2年次編入した東洋大学を卒業し、「学士(文学)」になった。我ながら、社会の役に立たない学位である。ところで私が卒業したのは、文学部の通信教育課程というところなのだが、この「通信教育課程」なる用語は、多くの人にとって耳慣れない言葉だと思う。大学と言えば「通学」が当たり前。「通信」と聞くと、ユーキャンやニチイなど、民間企業の資格講座を連想する方も少なくないのではないか。通信制大学は正規の大学とは似て非なるマガイ物とのイメージは、一定程度、世間に存するはずだ。通信制大学とは一体何をするところなのか?
通信の場合、このような座学は必須ではない。講義はレポートかスクーリングに代替される。レポートであれば、担当教員が指示した課題に基づき、2単位=2本、4単位=4本のレポートを、それぞれ2000~3000字前後の分量で書く。スクーリングは、夏季休暇や冬季休暇に開かれる通信生用の対面授業のことで、2単位=15コマ、4単位=30コマの授業を、何日間かに詰め込み、「集中講義」のかたちで受ける。そして、レポートかスクーリングをパスしたら、定期試験を受け、単位を得る。試験は、通学の場合と同様、筆記試験とレポートの両タイプある。教員次第だ(以上、すべて東洋大の場合。大学によって多少相違はある)。
よく通信制の大学は「誰でも入れるが卒業するのが難しい」と言われる。通信も通学も両方経験した私が思うのは、通信は、勉強の内容そのものが難しいわけではないけれど、とにかく孤独な学習スタイルであるということだ。通学の場合、とりあえず授業に出ていれば、試験前、教員が試験の範囲を教えてくれたりして、なんとなく単位が取れるものである。しかし通信生にそういった温情は働かない。各自が意識的にならないと単位は取れない。また、学友と恋をしたり、サークルに打ち込んだりという、ザ・青春的なキャンパスライフとも無縁である。その代り(?)、学費は年間10万円ほどと、安い。孤独に耐性があり、大学に青春的なものを求めていない貧乏人には、向いているかもしれない。
答えは単純と言えば単純だ。大学である以上、もちろん学問をするところである。ただ、その「学び」の方法が、通学の大学とは異なる。通学の場合、教室で教員の講義を受けることは必須である。90分1コマの授業を、春季・秋季に15週ずつ受け、各期末の定期試験を経て、単位認定となる。認定される単位は、半期で2単位、通年で4単位だ。130単位くらい集めると卒業になる。
通信の場合、このような座学は必須ではない。講義はレポートかスクーリングに代替される。レポートであれば、担当教員が指示した課題に基づき、2単位=2本、4単位=4本のレポートを、それぞれ2000~3000字前後の分量で書く。スクーリングは、夏季休暇や冬季休暇に開かれる通信生用の対面授業のことで、2単位=15コマ、4単位=30コマの授業を、何日間かに詰め込み、「集中講義」のかたちで受ける。そして、レポートかスクーリングをパスしたら、定期試験を受け、単位を得る。試験は、通学の場合と同様、筆記試験とレポートの両タイプある。教員次第だ(以上、すべて東洋大の場合。大学によって多少相違はある)。
よく通信制の大学は「誰でも入れるが卒業するのが難しい」と言われる。通信も通学も両方経験した私が思うのは、通信は、勉強の内容そのものが難しいわけではないけれど、とにかく孤独な学習スタイルであるということだ。通学の場合、とりあえず授業に出ていれば、試験前、教員が試験の範囲を教えてくれたりして、なんとなく単位が取れるものである。しかし通信生にそういった温情は働かない。各自が意識的にならないと単位は取れない。また、学友と恋をしたり、サークルに打ち込んだりという、ザ・青春的なキャンパスライフとも無縁である。その代り(?)、学費は年間10万円ほどと、安い。孤独に耐性があり、大学に青春的なものを求めていない貧乏人には、向いているかもしれない。
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東洋大は1964年に通信教育課程を開設 |
2015年10月27日火曜日
死にかけた話
埼玉県志木市に秋ヶ瀬取水堰という場所がある。埼玉県や東京都に住む人々の飲料水や生活用水の取水を目的として、1963年に竣工されたコンクリート堰だ。荒川を横切る4つの水門が適宜開閉し、川の水量を調節している。2003年、中3の冬、私はここで死にかけた。
遡ること上流へ数十キロ、当時私は埼玉県上尾市に住んでいた。釣りの好きな少年だった。私には何人か釣り仲間がいたが、中学の同級生Aとは特に仲が良く、行動をともにすることが多かった。中3の夏、私たちは沼に沈没している廃船を見つけた。
私たちはある計画を考えた。まず水底の廃船をロープで引き上げる。引き上げた船を沼から荒川水系の用水路に伝わせ、本流へ出る。そして川を降下し、50キロ先の東京湾に行こう、と。別に東京湾に行ったからといって何があるわけではないのだが、私たちはヤンチャで、時間があった。半年かけて計画を練った。
計画は半分成功した。決行の日、夜半より動き出した私たちは、早朝本流に出、オール代わりの竹棒を体力に任せて操り、昼には志木市へ突入した。だが、秋ヶ瀬取水堰ですべてが終わった。その日、水門は4つの内3つが閉まり、1つのゲートにすべての水が集中していた。おまけに、前日の雨で水嵩が増し、ゲートは滝の如くなっていた。早起きの疲れでボンヤリしていた私たちは、ここに船ごと呑みこまれたのだ。
死ぬ。そう思った。濁流にまきこまれ浮上は困難。頭が上になったり下になったりグルグル回る。水を飲む。呼吸ができない。意識が遠のく。死を覚悟した。
私は靴と、財布やカメラなど荷物一式を流された。Aは荷物は無論、ズボンやパンツを流され、スッテンテンになった。でも、命は取られなかった。無我夢中で川岸まで這い上がった。
ズブ濡れの私たちを、車で昼寝をしていたサラリーマンが助けてくれた。この人は善人で、決して名を名乗らず、バカな若者に寸志まで包んでくれた。帰宅して両親に報告すると怒られた。父は冒険心は認めてくれた。学校でも話した。この話は少し武勇伝になった。あとで聞くと、この堰では過去何人もの水死者が出ていた。
15歳の時の話だ。卒業式はその1ヵ月後。私は埼玉県の平凡な県立高校に、Aは美容師学校に進学した。それから10年余り、今ではもうAと会うことはない。結婚して子どもをもうけたと人の噂で聞いた。元気にやっているなら、嬉しい。
遡ること上流へ数十キロ、当時私は埼玉県上尾市に住んでいた。釣りの好きな少年だった。私には何人か釣り仲間がいたが、中学の同級生Aとは特に仲が良く、行動をともにすることが多かった。中3の夏、私たちは沼に沈没している廃船を見つけた。
私たちはある計画を考えた。まず水底の廃船をロープで引き上げる。引き上げた船を沼から荒川水系の用水路に伝わせ、本流へ出る。そして川を降下し、50キロ先の東京湾に行こう、と。別に東京湾に行ったからといって何があるわけではないのだが、私たちはヤンチャで、時間があった。半年かけて計画を練った。
計画は半分成功した。決行の日、夜半より動き出した私たちは、早朝本流に出、オール代わりの竹棒を体力に任せて操り、昼には志木市へ突入した。だが、秋ヶ瀬取水堰ですべてが終わった。その日、水門は4つの内3つが閉まり、1つのゲートにすべての水が集中していた。おまけに、前日の雨で水嵩が増し、ゲートは滝の如くなっていた。早起きの疲れでボンヤリしていた私たちは、ここに船ごと呑みこまれたのだ。
死ぬ。そう思った。濁流にまきこまれ浮上は困難。頭が上になったり下になったりグルグル回る。水を飲む。呼吸ができない。意識が遠のく。死を覚悟した。
私は靴と、財布やカメラなど荷物一式を流された。Aは荷物は無論、ズボンやパンツを流され、スッテンテンになった。でも、命は取られなかった。無我夢中で川岸まで這い上がった。
ズブ濡れの私たちを、車で昼寝をしていたサラリーマンが助けてくれた。この人は善人で、決して名を名乗らず、バカな若者に寸志まで包んでくれた。帰宅して両親に報告すると怒られた。父は冒険心は認めてくれた。学校でも話した。この話は少し武勇伝になった。あとで聞くと、この堰では過去何人もの水死者が出ていた。
15歳の時の話だ。卒業式はその1ヵ月後。私は埼玉県の平凡な県立高校に、Aは美容師学校に進学した。それから10年余り、今ではもうAと会うことはない。結婚して子どもをもうけたと人の噂で聞いた。元気にやっているなら、嬉しい。
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秋ヶ瀬取水堰(埼玉県志木市) |
2015年6月5日金曜日
東京造形大学「日本国憲法」の授業に行ってきた
東京造形大学の前田朗先生のお招きで、「日本国憲法」の授業にゲスト出演してきた。前田先生には、法大暴処法弾圧事件で無罪判決を取った翌年から、3年連続でお招きいただいている。2006年以来、公安警察を導入の上、学生の政治的表現の自由を圧殺、結果述べ126名もの逮捕者を出している「監獄大学法政」の現状と、逮捕から起訴、裁判、無罪へと至る「刑事裁判の被疑者」としての実体験を、学生の皆さんにお話するのが趣旨だ。「日本国憲法」との絡みで言えば、前者は19条(思想・良心の自由)、21条(言論・表現の自由)、23条(学問の自由)、後者は37条(刑事被告人の権利)、38条(拷問の禁止・黙秘権)と関係するだろう。
去年・一昨年は、法大闘争を一緒に闘った法大文化連盟、中核派系全学連のメンバーと出向いた。今年は、暴処法弾圧時、「任意聴取」のかたちで公安警察に引っ張られ、望まない供述調書を取られてしまった(ある意味では、仲間を売ってしまった)法大OB・菅谷圭祐君と、先輩に誘われて法大デモに参加したら「公務執行妨害」容疑で逮捕されてしまった明治学院大学OB・白石比呂志君と登壇。2人とも運動の当事者というより周辺者だが、運動破壊のためなら、周辺者にも牙をむき、利用する公安当局の悪辣さが、とりわけ菅谷君の体験談から明らかになったことと思う。
授業は、前田先生司会のもと、「法大闘争とは何か」「刑事事件での逮捕・勾留経験」「留置場での生活」「取調べの状況」「刑事裁判の闘い」「無罪判決を勝ち取った時の心境」といった切り口から、各自が話せることを話した。留置場での生活談や、取調べの際、公安刑事・検事から受けた罵倒の数々は、普段耳にしない話題だけに、興味を持って聞いていただけたのではないかと思う。最後の質疑応答では、「取調べの時、カツ丼はでますか?」「学生運動をして、就職できるんですか?」との質問が出た。この質問は毎年出る(笑)
説明が不十分な点や納得いかない点は、正直あっただろう。それでも耳を傾けてくれた造形大生の皆さんに、感謝したい。ありがとうございました。
去年・一昨年は、法大闘争を一緒に闘った法大文化連盟、中核派系全学連のメンバーと出向いた。今年は、暴処法弾圧時、「任意聴取」のかたちで公安警察に引っ張られ、望まない供述調書を取られてしまった(ある意味では、仲間を売ってしまった)法大OB・菅谷圭祐君と、先輩に誘われて法大デモに参加したら「公務執行妨害」容疑で逮捕されてしまった明治学院大学OB・白石比呂志君と登壇。2人とも運動の当事者というより周辺者だが、運動破壊のためなら、周辺者にも牙をむき、利用する公安当局の悪辣さが、とりわけ菅谷君の体験談から明らかになったことと思う。
授業は、前田先生司会のもと、「法大闘争とは何か」「刑事事件での逮捕・勾留経験」「留置場での生活」「取調べの状況」「刑事裁判の闘い」「無罪判決を勝ち取った時の心境」といった切り口から、各自が話せることを話した。留置場での生活談や、取調べの際、公安刑事・検事から受けた罵倒の数々は、普段耳にしない話題だけに、興味を持って聞いていただけたのではないかと思う。最後の質疑応答では、「取調べの時、カツ丼はでますか?」「学生運動をして、就職できるんですか?」との質問が出た。この質問は毎年出る(笑)
説明が不十分な点や納得いかない点は、正直あっただろう。それでも耳を傾けてくれた造形大生の皆さんに、感謝したい。ありがとうございました。
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前田先生から著書のプレゼント |
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学生が書いてくれた。イケメン風 |
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犯罪者風 |
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3.14弾圧時のリーフレット |
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暴処法弾圧裁判の最終意見陳述集 |
2015年4月9日木曜日
「情況」へ2本寄稿
今月発売の雑誌「情況」3・4月合併号へ2つの文章を寄稿した。今号は「学生運動―反ヘイトスピーチ特集」ということで、テーマと時宜に沿った文章を用意できたからだ。
1つは「七・六早稲田カウンター学生弾圧事件について」である。これは昨年7月、早稲田大学の1年生で、りべるたんの運営員であるA君が、ヘイトスピーチデモへのカウンター抗議の最中逮捕されてしまう事件があった。私は縁あって、A君の救援会の責任者として活動した。本稿はこの事件の総括録である。
1つは「七・六早稲田カウンター学生弾圧事件について」である。これは昨年7月、早稲田大学の1年生で、りべるたんの運営員であるA君が、ヘイトスピーチデモへのカウンター抗議の最中逮捕されてしまう事件があった。私は縁あって、A君の救援会の責任者として活動した。本稿はこの事件の総括録である。
下地には、昨年10月、早稲田大学で開催した共同シンポジウム「早稲田からヘイトスピーチを考える」での報告がある。同シンポの2部において、私は「7.6事件の経過報告と会計報告」と題し、一連の出来事を「ヘイトデモ主催者の主張」「被害男性の実像」「公安当局の思惑」「救援の方針と展開」などの観点から振り返った。これらの発言を文章へ置き換えたものが拙稿と言える。
また、1部の安田さんの講演「ヘイトスピーチとはなにか」も、「ヘイトスピーチの正体」と改題の上、文字起こしされている。以前、週刊誌の事件記者をしていた安田さんは、日本へ出稼ぎに来ている中国やブラジルからの移住労働者の取材をきっかけにヘイトスピーチ問題と出会い、関心を深めていったという。そして安田さんは、近年在特会らがネットを駆使して先導する「新しい差別運動」の以前から、日本社会には朝鮮半島出身者への根深い差別(意識)が存在していたと指摘する。私は当日、壇上のすぐ脇で聞いていたのだけれど、安田さん独特の間と勢いのある語り口も相まって、非常に引き込まれた。
弁護士の酒田芳人さんや憂国我道会の山口祐二郎さんらが登壇した3部の共同討議も、当初誌面へ再現される予定だったが、結局、情況編集部の判断で掲載へと至らなかった。議論が盛り上がっていただけに、残念だ。
2つ目の文章は「法大闘争史概略」である。新左翼界隈の方はご存知の通り(?)、法政大学では、2006年から今日に至るまで、学生の政治的表現の自由を巡って述べ126名の逮捕者・34名の起訴者が生まれている。リベラルの仮面をかぶった監獄大学、それが法大だ。
この学生側と大学側の激しい対立は一般に「法大闘争」と呼称され、法政大学文化連盟という団体が運動を牽引している。私は昔、同団体の執行委員を務め、多くの仲間と同様、留置場や東京拘置所へぶち込まれた。引退後も長らく、裁判闘争に明け暮れた。昨年2月、4年半の裁判生活を経て無罪判決が確定した後、私はこの間自分がやってきたことを総括しなければならないとの念に駆られ、法大への卒業論文のつもりで、本稿を執筆した。注も参考文献も付けていないが、2万字以上は書いたのではないかと思う。
この学生側と大学側の激しい対立は一般に「法大闘争」と呼称され、法政大学文化連盟という団体が運動を牽引している。私は昔、同団体の執行委員を務め、多くの仲間と同様、留置場や東京拘置所へぶち込まれた。引退後も長らく、裁判闘争に明け暮れた。昨年2月、4年半の裁判生活を経て無罪判決が確定した後、私はこの間自分がやってきたことを総括しなければならないとの念に駆られ、法大への卒業論文のつもりで、本稿を執筆した。注も参考文献も付けていないが、2万字以上は書いたのではないかと思う。
執筆にあたっては、次のような問題意識があった。すなわち、この間の異常事態にもかかわらず(公安警察が跳梁し、100名もの逮捕者が出ている研究教育機関は異常だ)、何が起きているのか、何故こんなにこじれたのか、運動の流れや経緯を通観するような論考がほとんど表に出ていないのは問題である、と。もちろん、私を含めて運動の当事者は、日常のビラや裁判の意見陳述など、それぞれの機会に、それぞれの立場で分析を行っているのだが、いくつかの例外を除いて、そういったものがまとまったテキストとして参照可能になっているとは言えない。私としては、90年代半ばに始まった自治会の非公認化、学生会館学生連盟の非公認化、「法大の貧乏臭さを守る会」の運動、9・21ボアソテロ、学生会館の解体、3・14弾圧、旧本部団体の非公認化、文化連盟と中核派系全学連の共闘、菅谷君の飲酒闘争といった一連の出来事を、背景事情を織り交ぜながら、「通史」のかたちで論述したかった。
とりわけ、文化連盟や中核派系全学連が主導する「法大闘争」の陰で、これまであまり光があたってこなかった、ノンセクト系の人々の動きに光をあてようと努めた。今でこそ法大の運動は文連・全学連の専売特許となっている観があるが、私たち以外にも様々な団体・個人が法大の現状を憂い、行動した歴史的事実は忘れるべきではないだろう。
とりわけ、文化連盟や中核派系全学連が主導する「法大闘争」の陰で、これまであまり光があたってこなかった、ノンセクト系の人々の動きに光をあてようと努めた。今でこそ法大の運動は文連・全学連の専売特許となっている観があるが、私たち以外にも様々な団体・個人が法大の現状を憂い、行動した歴史的事実は忘れるべきではないだろう。
なお、本文末尾にも記したけれど、本稿はもともと情況出版の新雑誌「アガルタ」へ掲載を予定し、昨年3月に脱稿したものだ。しかし、同誌が出版見合わせとなったため、今回、本誌「情況」へ掲載される運びとなった。脱稿時期が約1年前であることから、本文中、現在の法大学生運動の情報(運動の展開、逮捕・起訴者数など)を十分に更新できていない点がある。謝して、お断りしておく。
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