2016年3月4日金曜日

辺野古現地へ

 去る、二月二四日から二七日の四日間、沖縄県名護市へ行ってきた。名護市には、日米両政府が普天間飛行場(宜野湾市)の返還と引き換えに、新たな滑走路を建設しようとしている「辺野古」という集落がある。二〇一四年の名護市長選・沖縄県知事選では、基地反対派の候補が圧勝しているが、安倍政権は「粛々と工事を進める」(菅義偉官房長官)構えを崩していない。今回私は、全労協系労働組合の四名の仲間と、辺野古新基地建設阻止の闘いへ連帯してきた。

  初日は朝八時に羽田空港を出発。昼過ぎには、レンタカーで現地へ到着した。軽く浜辺を探索すると、一面に肌理の細かい砂子が広がっている。辺野古沿岸とその先の大浦湾は、ジュゴンや海亀、珊瑚が生息する、県下でも有数の「美ら海」(ちゅらうみ)だ。この美しい海を軍港にはさせないと、移設計画が持ち上がった当初から、地元住民を中心に反対闘争が組まれ、沖縄防衛局・米海軍の動向を見張るべく、三つのテント村が設けられた。住民は本気だ。一番長いテントは、二〇〇四年から一二年近く、運営されている。私たちも、工事機材が搬入されるキャンプシュワブ脇のゲートへ移動し、座り込んだ。

  二日目は朝五時起床。六時半から約一五〇人でゲート前へ座り込む。七時頃、機動隊が現れ、強制排除された。強制排除とは、座り込み参加者一人につき、二~四人の機動隊員が襲いかかり、四肢を持ち上げ、現場から強引に立ち退かせることだ。そして排除後、ミキサー車や重機など、工事に必要な関係車両を入れる。この時は、計八台が基地内へ入っていった。ちなみに、沖縄の運動は、徹底した「非暴力」を掲げている。排除されても、機動隊員を殴ったり、蹴り飛ばしたりはしない。けれど全身を使って、「不服従」の態度は示す。九時からは船に乗り、滑走路や岸壁を建設する埋め立て予定地で、抗議を行った。一帯は「臨時制限区域」に指定されており、沖縄防衛局の下請けである民間警備会社・マリンセキュリティの監視船が、目を光らせている。同社は私たちの船を追尾し、「法令違反です。ただちに立ち去ってください」と、大音量で警告を発し続けた。カーチェイスならぬシップチェイスだ。

  三日目も五時起床。六時半から約八〇人で座り込んだ。糸数慶子参議院議員(沖縄社会大衆党)も、最先頭で着座している。この日、キャンプシュワブ前のテント村は、開設六〇〇日の記念日だった。糸数氏は、沖縄県民の不屈の抵抗に、敬意と連帯のアピールを送っていた。また、沖縄の反基地闘争の顔である、山城博治沖縄平和運動センター議長は、先般、ジャーナリストのジョン・ミッチェル氏と面会した際のエピソードを紹介。二月八日に、米紙「ワシントン・ポスト」で、辺野古の問題が特集されたことの政治的意義を強調した。結局この日、工事車両の立ち入りはなし。抗議を展開しつつ、「座り込めここへ」「沖縄今こそ立ち上がろう」「沖縄を返せ」「翼をください」「明日があるさ」「勝利の歌」といった唱歌を、皆で歌った。本土の社会運動は、アジテーションや悲壮な決意表明が目立つが、沖縄の運動には歌や踊りがあり、楽しい。

  四日目、最終日も五時起床。六時四〇分頃、機動隊が座り込み参加者三〇人ほどを追い出し、工事車両一九台が基地へ入った。また九時半には、約四〇人を排除し、ダンプカー六台が侵入した。「非暴力」とは言え、無理やり締め出してくる以上、現場は激しい。屈強な機動隊員と半騒乱状態になる。私も首と腕を軽く捻挫してしまった。一〇時過ぎに撤収後は、宜野湾市へ移動。「沖縄戦の図」(丸木位里・俊)が有名な佐喜眞美術館と、「世界一危険な基地」(ラムズフェルド国防長官)として名高い普天間飛行場を見学した。普天間では、オスプレイが爆音を立て、基地を離陸していた。うるさい。最後は那覇市に戻り、空港近くの「不屈館」へ立ち寄る。ここは、敗戦後の米軍統治下、民衆の権利擁護と、沖縄の「祖国」復帰に尽力した、政治家・瀬長亀次郎(沖縄人民党・日本共産党)の資料館である。小規模な施設ながら、見応えのある充実した展示だった。

  沖縄は、〇・六%の国土面積に、七四%の米軍施設が密集する「基地の島」だ。憲法九条と日米安保条約の両輪で構成された、戦後日本の「平和主義」の矛盾――あるいは欺瞞――が、集約的に表れている場所でもある。今回同道した、坂本啓太全統一労働組合書記次長は、「基地も、反基地の闘いも、沖縄にばかり押し付けちゃいけない。だから私たちは、東京から来ました」と集会で発言していたが、その通りだろう。仲間と連れ立って、また辺野古を訪れたい。(2016・3・2)










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