2015年10月29日木曜日

19歳のハンスト

 先日、後輩の大学生が、参議院会館前で1週間、ハンガーストライキを行った。安倍政権による集団的自衛権法制化に抗議してのことだ。その様子は「東京新聞」 や「日刊ゲンダイ」で報じられた他、インターネット上でも一種の「炎上」状態となっていたから、あるいは、ご存知の方もいるかもしれない。この間多くの識者が指摘しているように、先般国会へ上程された安保関連法案には、大きく2つの問題点があると言われている。国内的には憲法違反の疑いが濃厚であること、 国外的にはアメリカの侵略戦争に――「自衛」の名をもって――日本が積極加担する危険が甚大であることだ。

 8月27日のハンスト開始以降、学生らは参議院会館前で野営し、朝昼晩の1日3回、集会を開催した。この集会には、元内閣総理大臣の菅直人氏、社民党の吉田忠智党首を始め、多くの国会議員が足を運び、激励と連帯のアピールを行った。また、前述の日本のメディアの他、海外のメディアも頻繁に取材へ訪れた。 中国の「フェニックステレビ」、イギリスの「デイリーメール」、シンガポールの「ストレートタイムス」、アラブ首長国連邦の「ザ・ナショナル」などがそれである。仄聞した話では、イランのラジオでも報じられたそうだ。海外メディアの報道について、ハンスト学生の一人は、「日本の民衆が安倍政権に反対しているという事実が海外に伝わっていくのは重要なこと。戦争に反対するためには、緊張関係を抱える東アジアの人々と協力しつつ反戦運動をつくりだす必要がある」と、民衆の国際連帯の観点から、その意義を強調した。

 議員やメディアだけではない。市井の人々の注目も多大だった。参院会館前には連日多くの労働者や市民が、慰問へ訪れた。朝、通勤途中と覚しきOLが、一言も言わず、新聞各紙とミネラルウォーターの入ったコンビニ袋を投げ去って行ったのは、麗しい美談である。彼女はツンデレだったに違いない。あまたの差し入れの結果、ハンスト実行者が唯一摂れる食糧の「塩」は、岡山産・沖縄産・フランス産・イタリア産など、国内外の名産品が揃った。

 警察による妨害やネット右翼の嫌がらせも頻発する。が、その都度、支援者や弁護士が対応し、トラブルの芽を潰した。ハンスト期間中はほぼ毎日雨。私も微力ながら支援へ馳せ参じたのだけれど、雨の中、刻一刻と痩せ衰える後輩の姿を見て――矛盾するようだが――元気をもらった。若者=純粋という図式はもちろん陳腐だ。しかし、若さには愚かさと紙一重の猪突猛進さがあり、それはやはり、人の心を打つのだと思う。






2015年10月28日水曜日

通信制大学の学び

 今年の3月、2年次編入した東洋大学を卒業し、「学士(文学)」になった。我ながら、社会の役に立たない学位である。ところで私が卒業したのは、文学部の通信教育課程というところなのだが、この「通信教育課程」なる用語は、多くの人にとって耳慣れない言葉だと思う。大学と言えば「通学」が当たり前。「通信」と聞くと、ユーキャンやニチイなど、民間企業の資格講座を連想する方も少なくないのではないか。通信制大学は正規の大学とは似て非なるマガイ物とのイメージは、一定程度、世間に存するはずだ。通信制大学とは一体何をするところなのか?

 答えは単純と言えば単純だ。大学である以上、もちろん学問をするところである。ただ、その「学び」の方法が、通学の大学とは異なる。通学の場合、教室で教員の講義を受けることは必須である。90分1コマの授業を、春季・秋季に15週ずつ受け、各期末の定期試験を経て、単位認定となる。認定される単位は、半期で2単位、通年で4単位だ。130単位くらい集めると卒業になる。

 通信の場合、このような座学は必須ではない。講義はレポートかスクーリングに代替される。レポートであれば、担当教員が指示した課題に基づき、2単位=2本、4単位=4本のレポートを、それぞれ2000~3000字前後の分量で書く。スクーリングは、夏季休暇や冬季休暇に開かれる通信生用の対面授業のことで、2単位=15コマ、4単位=30コマの授業を、何日間かに詰め込み、「集中講義」のかたちで受ける。そして、レポートかスクーリングをパスしたら、定期試験を受け、単位を得る。試験は、通学の場合と同様、筆記試験とレポートの両タイプある。教員次第だ(以上、すべて東洋大の場合。大学によって多少相違はある)。

 よく通信制の大学は「誰でも入れるが卒業するのが難しい」と言われる。通信も通学も両方経験した私が思うのは、通信は、勉強の内容そのものが難しいわけではないけれど、とにかく孤独な学習スタイルであるということだ。通学の場合、とりあえず授業に出ていれば、試験前、教員が試験の範囲を教えてくれたりして、なんとなく単位が取れるものである。しかし通信生にそういった温情は働かない。各自が意識的にならないと単位は取れない。また、学友と恋をしたり、サークルに打ち込んだりという、ザ・青春的なキャンパスライフとも無縁である。その代り(?)、学費は年間10万円ほどと、安い。孤独に耐性があり、大学に青春的なものを求めていない貧乏人には、向いているかもしれない。


東洋大は1964年に通信教育課程を開設

2015年10月27日火曜日

死にかけた話

 埼玉県志木市に秋ヶ瀬取水堰という場所がある。埼玉県や東京都に住む人々の飲料水や生活用水の取水を目的として、1963年に竣工されたコンクリート堰だ。荒川を横切る4つの水門が適宜開閉し、川の水量を調節している。2003年、中3の冬、私はここで死にかけた。

 遡ること上流へ数十キロ、当時私は埼玉県上尾市に住んでいた。釣りの好きな少年だった。私には何人か釣り仲間がいたが、中学の同級生Aとは特に仲が良く、行動をともにすることが多かった。中3の夏、私たちは沼に沈没している廃船を見つけた。

 私たちはある計画を考えた。まず水底の廃船をロープで引き上げる。引き上げた船を沼から荒川水系の用水路に伝わせ、本流へ出る。そして川を降下し、50キロ先の東京湾に行こう、と。別に東京湾に行ったからといって何があるわけではないのだが、私たちはヤンチャで、時間があった。半年かけて計画を練った。

 計画は半分成功した。決行の日、夜半より動き出した私たちは、早朝本流に出、オール代わりの竹棒を体力に任せて操り、昼には志木市へ突入した。だが、秋ヶ瀬取水堰ですべてが終わった。その日、水門は4つの内3つが閉まり、1つのゲートにすべての水が集中していた。おまけに、前日の雨で水嵩が増し、ゲートは滝の如くなっていた。早起きの疲れでボンヤリしていた私たちは、ここに船ごと呑みこまれたのだ。

 死ぬ。そう思った。濁流にまきこまれ浮上は困難。頭が上になったり下になったりグルグル回る。水を飲む。呼吸ができない。意識が遠のく。死を覚悟した。

 私は靴と、財布やカメラなど荷物一式を流された。Aは荷物は無論、ズボンやパンツを流され、スッテンテンになった。でも、命は取られなかった。無我夢中で川岸まで這い上がった。

 ズブ濡れの私たちを、車で昼寝をしていたサラリーマンが助けてくれた。この人は善人で、決して名を名乗らず、バカな若者に寸志まで包んでくれた。帰宅して両親に報告すると怒られた。父は冒険心は認めてくれた。学校でも話した。この話は少し武勇伝になった。あとで聞くと、この堰では過去何人もの水死者が出ていた。

 15歳の時の話だ。卒業式はその1ヵ月後。私は埼玉県の平凡な県立高校に、Aは美容師学校に進学した。それから10年余り、今ではもうAと会うことはない。結婚して子どもをもうけたと人の噂で聞いた。元気にやっているなら、嬉しい。


秋ヶ瀬取水堰(埼玉県志木市)